元日の朝、つまりは元旦、昨年受験生の合格だるまとともに関越道を下る。
恒例のだるま納め、お札納めである。
途中、関越道の高架橋の上に居並ぶ人々。
橋の上で一様に同じほうを向くちょっと異様な光景に、
「初日の出」を拝む人々の群れであることを知る。
バックミラーから見る真っ赤な陽の姿に、
「見に行けばよかった」などと少しの後悔。
外房の波打つ海岸の先の大海のその水平線から昇る真っ赤な陽の姿、
何度見てもすばらしい。
海で見たら感動しただろうな、などと思いつつ、
でも、こうして車中のバックミラーで眺める初日の出も「一期一会」の陽の姿、
そんな思いで気持ちを改める。
関越道の行く先は恒例の神社。
拝殿に上がり、祝詞を賜り、宮司さんの言葉を聞く。
今年は新しい宮司さんだった。
「二礼二拍手一礼」という神社の参拝の作法の説明の中で、宮司さんは言う。
二礼の最初の一礼は「感謝の一礼」だという。
昨年一年無事に過ごしてこれたことへの感謝の一礼が最初の一礼である、とのお話。
自らをそして命というものを見つめるお寺と違って
神社は「祈願するところ」「お願いをするところ」
との意識が働くことが多いところ。
お寺の住職ではなく神社の宮司の言葉ということで、
少し意外な感じがしてしまったのは、
私の思い込みのせいもあるようである。
「あけましておめでとう」
この言葉に子供のころ大いに違和感を持っていた。
「新年がどうしておめでたいのだ」という単純な疑問。
大人になって「新年をおめでたい一年にしたいという人々の心から生まれた言葉だ」ということをならって、
わかったつもりでいた。
でも、今年の宮司さんの言葉で新たに思い知る。
「あけましておめでとう」には
「昨年一年無事に過ごせ新年を迎えていることに対してのおめでとう」の意味があることを。
無事に一年過ごしてきたということは、それだけでおめでたいことなんだ、
感謝すべきことなんだ、ということを知る。
過去を振り返ることも未来に思いをはせることも必要なく、
今この瞬間、無事に一年を過ごしてきたことへの感謝とともに、
そんな自分に「あけましておめでとう」と伝えてやる。
そんな瞬間を与えてくれるのが元旦、ともいえるようである。