『3人のきょうだいが、ひとつ家に住んでいる。
ほんとはまるで姿がちがうのに、3人を見分けようとすると、それぞれがたがいにうりふたつ。
1番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。
2ばんめもいないが、こっちはもう出かけたあと。
3ばんめのちびさんだけがここにいる、
それというのも、3ばんめがここにいないと、 あとの2人は、なくなってしまうから。
でもそのだいじな3ばんめがいられるのは、1ばんめが2ばんめのきょうだいに変身してくれるため。
おまえが3ばんめをよくながめようとしても、見えるのはいつもほかのきょうだいのひとりだけ!
さあ、いってごらん、3人はほんとは1人かな?
それとも2人?それとも、だれもいない?
さあ、それぞれの名前をあてられるかな?』
これは、『モモ(ミヒャエル・エンデ作)』の中の一節で、
主人公のモモが、時間の国の主人から出された難しいなぞなぞです。
モモはこのなぞなぞを見事解くことができます。
3人の兄弟が「過去・今・未来」であると、モモは謎解きます。
1番上が「未来」、2番目が「過去」、そして3番目が「今」として、
なぞなぞに当てはめると、なぞなぞの意味がよくわかってきます。
時間の国の主人はモモにさらにこの3人の支配者を考えさせます。
そしてモモはその支配者が「時間」であることに気づきます。
「時間」って何なんでしょう?
見ることはできません。
確かに存在しているけれど決して見ることも、触れることもできません。
そういう点では「心」と似ています。
でも確かに言える明らかな「心」との違いは、「時間」は「常に過ぎ去っていくもの」という事です。
目に見えないものが常に過ぎ去っているのです。
138億年前の「ビッグ・バーン」が「宇宙の始まり」といわれてます。
その宇宙が生まれた瞬間から宇宙の膨張が始まり、その瞬間が「時間」の始まりです。
膨張し続ける宇宙にあわせて、宇宙そのものの性質でもある「時間」は過ぎ去り続けるのです。
宇宙の中で宇宙の産物として存在する「人間」が宇宙の性質を変えることはできません。
過ぎ去っていく「時間」を止めることも、過去にもどることもできません。
自分自身の未来に行くこともできません。
こんなことは、誰しもがよくわかっていることです。
過去にもどれないから、「後悔」という心も生まれるし、
未来を想像できるから「夢」を描くことができるのですから。
モモは見事に、時間泥棒との戦いに勝利します。
そして、人々に「心豊かな生活」を取り戻させることができます。
「心豊かな時間」とは何なのでしょう?
「忙しい」という言葉は「心を亡くす」と書きます。
「心を亡くした状態が忙しい」という事であれば、忙しさの反対が心豊かな時間という事なのでしょうか。
「ライン」のもたらす弊害が、大人たちより、より大きく子供たちにのしかかっているようです。
「時間泥棒に大切な時間を奪われないように」と、思います。