午前4時、携帯のアラームがなる。
眠りの底にいた自分の頭がことを理解するのにわずかの時間を要する。
「起きなくては」という思いと「このまま寝てても…」という思いが一瞬交錯する。
結論は「起きる」である。
起きて得られる心のありがたさが、寝て得られるそれに勝ることを瞬時に思い浮かべるのは、
「経験」のおかげである。
これは「山歩き」を行う朝のいつものこと。
日常と違う行動は、何かと脳に問いかけをしてくるのである。
非日常が脳に与える刺激はこんなとこにも現れる。
いざ、準備完了、山歩きを始めても、血液の行き渡らない全身は心も体も重い。
入山直後に急な登りが続くと
「なんで、こんな大変なことをしているのだろう」という自問の中で歩を進める。
体が重いときほど休みは禁物で、遅くてもともかく歩を進める。
負の思いを断ち切るかのように歩いていく。
やがて、体が順応してくる。負の思いも消えていく。
「無心に進む」そんな形容が一番あっているのだろう。
数時間かけての、ただただ「山を登り、そして降りてくる」という「山行」に、
その意義を疑問視する人からは、理解を得にくいことなのだろう。
でも「無心に歩を進める」その行為にこそ「山歩き」のありがたい価値がある。
『山頂からの景色が見たい』とか
『高山だけに咲くその花を見たい』とか
『満天の星空を見たい』とか、いろんな思いが人々を山に誘う。
そのどれもが魅力的で日常得られない素敵なことである。
でも、ここで必要となるその「登山の過程」なくして、
山歩きが好きになることは考えられない。
山頂にヘリコプターで行ったとして、「見る」という思いを達したとして、
それが山好きに結びつかないことは容易に想像がつくことだろう。
過程なくして瞬時に与えられた喜びは脳に深くとどまることはないようである。
「楽しさ」は得られても「おもしろさ」は得られない。
“fun”と”interesting”との違いのように、
長く深く得られる山歩きのおもしろさ(interesting)は
その過程によって得られているのは確かである。
「過程の意義」これを感じることができる人間は、
その能力ゆえに成長を続けていけるのであろう。
「過程の大変さ」があればこそ「結果の喜び」を大きく感じることができる、
この人間に与えられた能力は大変ありがたいことである。
「困難な過程」も「安易な過程」も
どちらも同じような「喜び」を感じることしかできない生き物だったら、
人類はこんなに進化・成長できなかったのであろう。
「困難」の先にある「喜び」、それを意識することの意義は大きい。
未経験なことが多い子供たちは、日々日常、「困難な過程」と思いやすい環境にいる。
そんな子供たちこそ
「困難さ」のその先にある「喜び」を意識させてあげることが大切なのだろうと思う。