遊んだ時の記憶は薄れても、歌った歌は記憶に残る、
そんな思いにさせてくれる「遊び歌」。
その一つに「通りゃんせ」がある。
きっと小学低学年のころだったのだろう、
家の前の路地での近所の子たちとの遊びの一つに「通りゃんせ」があった。
「怖い帰り道、誰がとらえられるのか?」
そんなことにわくわくドキドキしながら遊んだものだった。
その歌詞に「この子の七つのお祝いに『お札(ふだ)』を納めに参ります」という節がある。
『お札』って何だろうと気にはなるものの、
さして気にもかけず、ただただ歌って遊んでいた。
『お札』という言葉を知ったのはそんな子供の時だったが、
実際にお札をお寺に納めるようになったのはそれから30年余りの月日が経った後だった。
埼玉県秩父地方には34の観音霊場(お寺、札所)があり、
多くの人が札所巡りをしている。
巡礼道と呼ばれる札所間の道は、今では車で通れるように広く舗装されているが、
かつての歩いて巡礼が行われていたころの「巡礼古道」が随所に残っている。
私は歩いて巡礼をするときは当然のように古道を選ぶ。
数年前の寒い時期だった。
里山の中に切り開かれた古道を歩いていたら、思わぬ光景に目を奪われた。
そもそも山中古道で人と会うことが珍しい中、
見たところ80歳は超えておられる方が、
杖を片手に山道を歩いておられた。
その杖も不自由な足の動きをサポートするためのものであることはすぐにわかった。
舗装された新道であっても歩行は決して容易ではないだろう、と感じさせる歩みだった。
でも、その方の歩みは、強い信念で「前に進む」という意志を感じさせるものだった。
周りの言葉を寄せ付けないようなその姿、歩みに私は圧倒された。
諸行無常に救われもし、戸惑いもし、
そして今、あまりにも速い社会の変化にたじろぐ。
変わらぬもの変わっていかないであろうものに心惹かれる。
20年後、感動をもらえたあの巡礼古道は果たして残っているのだろうか。
是非残っていて欲しいものの一つである。