「自由研究が親の負担になっている」そんな話をある塾の先生から聞いた。
驚いた。自由研究のテーマの決定、更にはその研究制作までをも親が手伝っていたりするようである。
「自由研究に費やすわが子の負担を減らしたい」
「わが子の成績、評価が下がらないように」などという親心だけでなく、
「親の協力を求める学校」もあるようである。
諸事情あっての事なのであろう。
でもこれは明らかに、未来を生きる子供たちに、
学習の大きな目的である「自分で考える力」を培っていくうえでマイナスであるように思う。
「自由に考えてよい」ということに誰しも戸惑う。
私も夏休みの後半になってもテーマが決まらず頭の片隅に居続ける「自由研究」には悩まされた。
ワーク的な宿題は時間をかければこなすことができる。
「自由研究」となるとテーマ、構想を練るのに見通しの立たない不安とともに
格闘しながらの日々を送る必要が出てくる。
当然のように最後まで残り続けるのが「自由研究」であった。
面倒で逃避したくても避けることができない、1つの事を何日も考え続ける日々、
けっして楽な事ではなかった。
でもこれがきわめて大切な事であったと振り返る。
自由研究の目的って何だろう?
自由に子供たちが考えるその自由研究の研究作品なり研究レポートの、
その優劣を判断することに自由研究の目的なんてない、と私は考える。
「自由に考えることの難しさ」を認識させ、
それを得た時の喜びを知らしめるのが「自由研究」の最大の目的であるはずである。
夏休みの長い期間を使って、じっくりと考え込ませる経験をさせることの、
その大きな意義を認識すべきなのであろう。
発想豊かな幼児、低学年の子供たちが「学齢が上がるにつれて発想力がなくなっていく」
この現象を周りの社会、大人たちが助長している事実は否定できない。
この夏休み、「人工知能に対抗できる脳の育成のために必要な事」、
そんなことをじっくり考える、そんな「自由研究」はいかがなものかと提案する。