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2009年10月号 | 創明館便り

小学5年生になるまで私は薪を焚いて風呂の湯を沸かす家で育った。
当時、裏庭に積み上げられた材木を斧で割って、それを風呂釜に入れる風呂焚きの仕事が私は好きだった。
まき木がうまく燃えないときに新聞紙を入れたりうまく燃えるように重ね方を工夫したりすることに夢中になった。
自分に与えられた家族の一員としての仕事であったが、「面倒な仕事」と思ったことはない。
私は風呂焚きが好きだった。まき木が燃えていくその燃えるさまをボーっと眺めているのが好きだった。
どうして好きだったのか、その理由なんてわからなかったし、考えもしなかった。
私は燃えているその炎の姿にひきつけられていた。
変わり続ける燃える炎のその形と色、次々と燃え続け灰と化していく木々、それらに魅せられ、
一刻たりとも同じ瞬間のないその変化の連続に私は飽きることがなかった。
そういった飽きることのない時間を自分ひとりで過ごすことができたのが
風呂焚きを好きにさせてくれた一因だったように今では思う。

人間は自然界の変化に心ひかれるように思う。
暗闇がだんだんと白んで、陽の昇るそのあたりが急に猛烈に明るさを増して、
いっきにそのまぶしいまさにその光線と呼ぶにふさわしい光を見るものに浴びせかける日の出、
ごろんと草むらに寝転んで見上げるそこに刻一刻と形を変えつつ流れていく雲、
落ちていくその音としぶきを伴って次々と新たな清水が落ち続ける滝、
冬の間落葉していた樹木が春になりそのかわいらしい新芽新緑をつけるさま、
そういった自然界で起こり続けている変化のさまに人間の心は惹かれていく。

 「海は広くて大きいな♪」という歌詞が代表するように海の形容はその大きさによってされがちだが、
私は海のもたらす海岸に打ち寄せる波に心ひかれる。
海原(うなばら)を航行する船上から見る海は「見飽きる」のだが、
海岸に打ち寄せる波は見ていて飽きない。
海岸に岩などあったりして、繰り返し繰り返し波に洗われるその姿を見、
そしてそれが一時たりとも同じ形同じ海水でない、過去から未来永劫変化し続ける波に洗われ続けるその事実を思うと
より見入ってしまう。

人間の作りえないもの自然、その一刻たりとも常ならずの無常の姿を時に眺めることで
人間の心はちょっとした変化が生まれる。
人間自身がその無常の自然界の産物として生存しているかぎり、人間にとって自然界はその母体であって、
その自然界のもたらす光景にその摂理に人間は心の変化、安らぎを得られるのも当然のことのように思う。

自然の姿を目にする有り難さ、その感動を知ることのできる原点は子供のころのいろいろな原体験にあると思う。
私は自然の中で自由に遊べた子供の頃の原体験にとても感謝している。
そして、はたして今現在、バーチャルなゲームに夢中になる子供たち自身が、
将来自分の原体験に感謝できるのかと疑問を感じる。
そしてそこには、「楽しさ、面白さで得られない感動」のすばらしさを伝えきれない大人の責任を感じる。  (吉田)

創明館便り
この記事を書いた人
創明館 吉田

塾代表 吉田聡彦 : 練馬区高松(光が丘・夏の雲公園前)にある小学生・中学生・高校生向けのグループ/個人の学習塾を運営しています。
塾運営での想い、感じたこと、発信したいことなどを更新しています。

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