「いじめは自分を尊重しない行為である」と前号で書きました。
それは、私自身がいじめを傍観する側にいた経験からくる思いです。
私自身が、少年時代を振り返るに、自分がいじめに加担したことはないのか、
と自問するにあたり、思い出す1つの出来事があります。
中学1年生のそのクラスは、私が自分の学校生活の中でもっとも楽しく過ごしていたときのように思い出される1年でした。
まだまだ、小学生のような幼さで、中学という新しい場で新しい友達も多くいる中で学校生活を楽しんでいました。
自分自身が中学生活の1年目を楽しんでいる中で、明らかにその中学生活を楽しめていないと思われる、
一人のクラスメイトがいました。
クラスの雰囲気がそこに壁を作っていました。
私はクラスの中で、孤立していたそのクラスメイトが、
いろんな出来事をきっかけにますます孤立していく様子を感じていました。
私は、「いじめ」という意識を持たないで、「多数の連帯」の中で、
多数の思いの中で自分の存在感を感じていたように思います。
学校生活の中で、当時の自分は、教師、友人といった他とのバランスの中で動き、
他との協調を心のバランスを得るために選択していたような気がします。
私たちは「いじめ」という認識を諭されることもなく過ごしていきました。
当時の自分を振り返って思うことは、
いじめの問題を加害者、被害者双方の当事者つまり子ども自身が解決する能力を備えていないということです。
大人たちが力を注いでいくしか解決の方法はありえません。
そして、それは決して教育現場にいる大人たちだけに課されている課題ではなく、
先に生まれた先輩として社会を動かしている大人たち全てに課された課題だということがいえると思います。
大人の社会が範を垂れることが大切だと感じます。(吉田)